獨協大学前に住んで、もう20年近くになる。
この街に住み始めたのは、2003年4月のことだった。私はこのとき結婚し、子どもを持った。新しい生活を始める場所として、ここを選んだ。
私は、この街を気に入っている。
私は賃貸派だ。自由に引っ越すことができる。それでも、この場所を離れたいと思ったことはない。
2003年の住まい探し
妻は、バツイチ子持ちで娘がいた。娘は結婚当時、小学4年生。
娘は、私が父親になることを無邪気に喜んでくれた。娘は、私を父親として明示的に承認した。私にとって、最も誇らしい出来事だった。
結婚当時、私は東京でプログラマーとして働いていた。妻は、岩手県で医療補助のパートをしていた。収入の期待値は、私の方が高いことは明らかだ。私たちは、私の収入を軸に生活することを合意した。
妻と娘を呼び寄せる形になる。当時の私の勤務先は、東京駅の近くだった。職場へのアクセスを軸に、住む場所を考えた。
葛西は人が多すぎる
まず考えたのは、江東区の葛西。私が結婚直前まで一人暮らしをしていた場所だ。しかし、私はこの場所が好きではなかった。あまりにも人が多すぎる、と感じていたからだ。
私は埼玉県岩槻市に産まれ、高校まで岩槻に住み、大学からは仙台に住んだ。どちらも、田舎というほどの田舎ではないが、大都会とは全く言えない。
そういう私にとって、葛西は、あまりにもゴミゴミしていて、気が休まらなかった。
結婚直前、私と妻は一ヶ月のお試し同居をした。娘を妻の両親に預け、私の一人暮らしの部屋に二人で住んだ。お互いの性格や気持ちを最終確認する期間でもあり、恋人気分を味わう最後の期間でもあった。
一ヶ月の間、妻も葛西に住んだことになる。この一ヶ月の生活は楽しいものだった。しかし妻も、葛西の街を好きにはならなかった。ゴミゴミしている、という私の言葉に、妻は同意した。
伊勢崎線の街
次に考えたのは、東武伊勢崎線沿線の街だ。
東武伊勢崎線は、東京都足立区から、埼玉県草加市、越谷市、春日部市を南北に貫いている。
私は高校時代、越谷北高校に通っていた。東武伊勢崎線のせんげん台駅が最寄りの高校だ。伊勢崎線には、なんとなく馴染みがあった。
結婚前、私が葛西から岩槻の実家に顔を出すときにも、この東武伊勢崎線を使っていた。
葛西から地下鉄東西線に乗り、八丁堀駅で日比谷線に乗り換える。東武伊勢崎線と日比谷線は、当時から相互乗り入れをしていた。
伊勢崎線の電車の中から見る街の雰囲気は、さまざまだ。
北千住は葛西とだいたい同じ。通勤には便利だがゴミゴミしている。北千住から北は、しばらく同じ雰囲気だ。
小菅、五反野、梅島、西新井、竹ノ塚。このあたりの街は、かなりギュウギュウに建物が詰まっている。自分ひとりで住むなら悪くないが、子育てに理想的な場所だとは思えなかった。
竹ノ塚の北隣は、谷塚駅。この谷塚駅から北は埼玉県草加市だ。
谷塚の街は、東京の街と比べると、空が広い。なんとなく安心する。しかし、まだ東京のように雑然としている印象があった。
次の駅は草加。草加駅は急行停車駅で、草加市の中心部だ。東口の駅前には、8階建てのマルイがある。マルイの向こう側は、背の低い住宅地だ。
私は、この東口は綺麗すぎる、と感じた。駅を出ると大きめのロータリーがあり、中心には噴水状の造作物が置かれていた。確かに美しいけれど、無理をして実力以上に美しく見せているような印象があった。
獨協大学前駅(旧名:松原団地駅)
草加駅の北隣は、松原団地駅だ。この駅は2017年4月に名前が変わった。現在の正式名称は「獨協大学前<草加松原>駅」だ。
以前は「松原団地駅」だった駅名が、今は「獨協大学前駅」へ変わったということだ。この文の中では「獨協大学前」の呼び名で統一させて頂く。
獨協大学前駅の東口は、やはり雑然とした印象だった。しかし北千住から竹ノ塚あたりと比べると、道路が太く、建物の圧迫感がなかった。
東口を5分ほど歩くと、線路と平行する方向に綾瀬川が流れている。その脇には、立派な歩道が整備されていた。ただの歩道と言うのはちょっともったいない。観光歩道、とでも呼ぶのだろうか。
西口には、古ぼけた団地があった。西口の目の前には、草加市立図書館がどっしりと鎮座している。その向こうに、見渡す限りどこまでも団地が広がっていた。
あとから地図を見ると、駅から西へ1kmほど行った先に、国道4号線があった。駅からその国道まで、団地で埋め尽くされているらしかった。
この団地は、1962年に「草加松原団地」という名前で建設された。2003年当時で、築41年の建物だったということになる。明らかに古い建物だ。
総戸数は、約6000戸。その多くがファミリー向けの造りだったそうだ。とてつもない数だ。
駅を降り、団地の中の道を歩いてみる。まず感じたのは、道の広さだ。とにかく広い。葛西の街のような息苦しさは全くない。子どもには良い環境に思えた。
建物の敷地にも、余白があった。道路の脇には1メートルほどの幅の緑地があり、その脇に歩道があり、その脇にまた少し広い緑地があって、その中に建物が建っていた。
保育園と公園もたくさんあった。この団地は、ボロいけど、それ以外に欠点が無い。当時の私は若く、稼ぎが少なかった。私には合っている場所に思えた。妻にこの場所を提案し、承諾を得た。私は獨協大学前に住み始めた。
獨協大学前での生活
獨協大学前での生活は、すこぶる快適だった。
団地住まいは、隣人との距離感が程良い。私は4階建ての団地の4階に住んでいた。隣人関係としては、同じフロアの人と、1階下の人とだけ会話があった。
結婚後すぐに子が生まれ、同じ保育園に通う子の親の間で、緩やかな繋がりができた。妻にとって、この親同士の繋がりは楽しかったようだ。
一方の私は、忙しく働いていた。今で言えば、ブラックな職場環境の会社だった。
たまに、どうしても会社に行きたくない日もあった。そんな時は、出社するふりをして家を出て、駅前の草加市立図書館で羽を休めた。
図書館は、自分の存在が目立たない程度に、良い具合の混み方をしていた。獨協大学前には、その名の通り、獨協大学がある。たぶん、獨協大学の学生が、試験勉強などに図書館の座席を使っているのだろう。
会社をサボり、気が向くままに本を漁ると気が晴れる。明日は出社してやるか、と気を持ち直すことができた。
個人の顔や名前が埋没する程度に人がたくさんいる。一方で、イライラするほど混んではいない。これが草加市立図書館の良さだ。
そしてたぶん、これは獨協大学前の暮らし全般に言える。個人が街に溶ける程度に人が多いが、都内のような息苦しい混雑はない。
私は、会社で疲弊しつつも獨協大学前の街に癒され、なんとか働きぬくことができている。
今では、結婚当時に小学4年生だった娘は、28歳になった。
娘は、大学入学と同時に一人暮らしを始めた。私と一緒に暮らしたのは、9年間だけだったということになる。あまりにも短い時間だった。
娘は、義理堅い。就職後に彼氏ができると、私に紹介した。
まだ、結婚を考えているわけではないらしい。それでも、彼を私に会わせた。それが私には嬉しかった。
娘の彼氏と会う場所には、江戸一草加店を選んだ。獨協大学前駅の東口からから徒歩で20分ほどの場所だ。
「江戸一」とは、食べ放題で有名な「すたみな太郎」系列の、ちょっとだけ高級な店だ。ひとり5000円ほどで、タラバガニや肉、寿司、いくつかの料理が食べ放題のコースがある。
江戸一草加店は、建物の2階が「江戸一」、1階が「すたみな太郎」になっている。
この1階のすたみな太郎には、何度来たかわからない。娘が好んでいたからだ。
息子が産まれた日も、このすたみな太郎に来ていた。出産予定日を過ぎても息子が妻のお腹から出て来なかったので、落ち着いて待つことができず、どうせ落ち着かないなら娘が喜ぶ場所でメシを食おう、と言ってここに来た。
すたみな太郎で焼肉をたらふく食べ終わり、帰りの車を走らせている時に妻は破水し、陣痛が始まった。そのまま草加市立病院に行き、息子は産まれた。
娘の彼と息子に、その話をした。息子が生まれる直前に、この建物の1階でメシを食っていたのだ、と。
江戸一が、娘の彼を迎えるためにふさわしい場所かどうかは、よくわからない。しかし私にとって、ここは、それに値する場所だ。
2022年 獨協大学前 西口の街並み
これを書いている今は2022年。いま、獨協大学前の西側は、大規模な開発が行われている。
古くなった松原団地は取り壊され、真新しいマンションがニョキニョキと建っている。
なにしろ、最初の団地は1962年に建ったのだ。60年が過ぎたということになる。建て替えるのは必然だろう。私が2003年に見たボロい建物は全て消え去った。今は、綺麗すぎるほど綺麗な街になっている。
以前の、ボロくて牧歌的な街も、私は嫌いではない。しかし今の綺麗な西口の街並みは、この街の住人として誇らしい。
それと同時に、自分のタイミングの悪さについても考えてしまう。私が最初に見た獨協大学前の街が、この綺麗な街並みだったなら、即座に、この街に根を張る決断をしたかもしれない。
いま思えば、20年前、ここに家を買ったほうが良かった。しかし当時の私は弱すぎた。
それでも、20年間をこの街で暮らせたことは幸運だった。きっと、私はこのまま、この街を離れないだろう。
以上、獨協大学前で暮らした20年間でした。
土橋さんありがとうございました!土橋さんと動画も撮っているのでチェックしてみてください。すんでにて土橋さんへ相談したい方はこちら